1月、東京で『郷愁の丘 ロマントピア(以下、ロマントピア)』に胸を撃ち抜かれたからだろうか。なんだか『珈琲法要』の札幌再演は物足りなかった気がしてならない。やすみん姐さん、瞑想子姐さんが書いてくださった内容にそれぞれ関係しているのだけど、再演では「素に戻って観客に掛け合う場面」が多かったように思う。
力みのない演技で観る側のテンションを徐々に上げていく中、素に戻られて集中力が途切れる-それが何度かあった。役者3人の札幌の観客へのサービス精神からなのか??とも思ったけれど、観客をどどーんと突き放しておきながら物語に取り込まれるようだった『ロマントピア』以上の勢いはなかったなぁ。
さてさて。観る人によってさまざまな解釈が出てくる「弁慶の首締めシーン」。初演では「弁慶に首を絞められて死んだはずの忠助が、脱走?ええ?」と驚いた。が、今回、変に疲れの残る中で観た私は、あのシーンを「パラレルワールドで起きたこと」として捉えてしまった。
ものすごく説明しにくいけれど説明すると-
一つ目の世界は「死に間際の忠助を弁慶がアイヌ民族の子守歌で安らかにおくった」
二つ目の世界は「死に間際の忠助を、弁慶がこれまでの恨みを込めて首を絞めた(その後、死人を送るように指さして叫んでいたから、忠助は首を絞められて死んだ、と解釈)」
三つ目の世界は「実は忠助は意識朦朧とするまでには至っておらず、『これではマジで浮腫で死んでしまう』と逃げ出した」
この三つの世界が重なったりくっついたりして、あのシーンができているという具合である(私、思いの外疲れていたんだと思う)。まぁ、そういう見方をした人もここにいた、という事実でしかないのだけど。
実はそれよりも、観劇しながら自分の実家があるマチのことを思い出し、考えていた。幼い頃から周りにはアイヌ民族またはアイヌ民族の血を引く人たちがいて、友人や友人の両親、祖父母として付き合ってきた。だから『珈琲法要』で描かれたようなことが過去にあったとしても、アイヌ民族は「アイヌ民族」という括りではなく、私には「身近な人たち」なのだ。
そんなマチは、国の盛大な力添えの下、ものすごい「空間」の建設中である。幼いころに走り回っていた、コタンに近いだだっ広い草地は草が刈られて盛り土された。住民らの目印となっていた小さい山は崩され、その跡にすごい「リゾート」が進出するという。それに付随して、増加が予想される交通量を緩和する目的で道路の拡張工事が進み、「ここ、家がはみ出している部分は国の土地だから!」と言われた住民も少なくない。メディアでは「マチは盛り上がっている」と紹介されるが、実際は地元民はよく分からないうちに振り回され、冷ややかでもある。
…あっ、今も昔も結局は「御上が問題」ってことなの?
●1月30日、シアターZOO
text by マサコさん